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「下から7割の人のための理科&算数教育 - Chikirinの日記」に対する意見 学校ってすごいと思いませんか

ちきりんさんの下から7割の人のための理科&算数教育 - Chikirinの日記に対する意見です。

義務教育である、小学校、中学校、それに事実上の義務教育である高校をあわせた 12年間の理科教育のうち、私に必要だったのは小学校レベルの理科だけであって、中学・高校で、化学、物理、生物、地学などを学ぶ必要は全くなかったと思います。

義務教育とは創造と選択です。前半で才能を育て、後半で才能の芽を見いだします。例えば、私自身は高2の冬に物理に目覚めました。それまでは全然わからなかったです。

ただ、物理という学問に目覚めるというのは本当に確率が低くて、教える側になってみると教室にいるほとんどの生徒がどんどん脱落していく姿を見るのは大変辛いです。辛いけど、教員はやらなければならない。好きでやっている教員なんていません。

学校というのは「ふるいにかける」という社会的な役割を担っています。(いろいろな側面ごとに)「優秀な生徒」と「そうでない生徒」を分けなければならない。それはまずは高校入試や大学入試のためですが、最終的には就職のためです。

語弊はありますが、例えば、優秀な人間が官僚になる。優秀な人間が医者になる。人間力のある(文系)人間が大企業に入り、管理職になって物事を丸く調整していく。普通の人は普通の企業へ行く。あまり能力の高くない人は専門学校で特定技能を習得して、それで仕事して生きていく。国家がそういうつくりになっています。


算数に関しても、中学校1年までに学んだことで十分で、中学校の後半以降、算数&数学の授業を受けてなくても、これまでの人生において、たぶん何の問題もありませんでした。

ちきりんさんのお話全体的に対して思うことですが、学校で学んだことが仕事や生活で使えると期待してはいけません。繰り返しになりますが高等教育がやっていることは単なる国家的選択です。それだけでも大変です。


その 3割の人は、今よりもっと高度な内容について学べばよいし、その中でもレベル別クラスにして、得意な人は中学・高校から大学レベルの内容を学べばいい。(ちきりん含め)アホな生徒に足を引っ張られることなく、どんどん先を進んでいってほしいです。

教育の世界では昔から「平等教育」と「差別教育」のどちらがいいのか、という議論があります。「平等教育」は生徒全員に同じ授業をする。「差別教育」は生徒をレベル別に分けて、それぞれのレベルに応じた教育をする。一見「差別教育」の方が良いように見えますが、レベル別に分けられて下の方のクラスに入れられた生徒はプライドを汚されて荒れる、暴力事件を起こす、自己肯定感を失うといった副作用があると言われています。米国などはその典型例だと思います。


残りの 7割の人には、今教えられてる内容に替えて(=その時間を使って)「生活するために必要な科学知識」を教えてほしいです。

学校の持つ特殊な特徴として、教員は一定数の「自分より能力の高い生徒」も教えなければならない、ということがあります。そのため、各科目にはカリキュラムが丁寧に用意され、(個性がなくてつまらないんですが)丁寧に授業内容を説明している教科書があります。

教員は、教科書に書いてあることを教えるので手一杯です。自分が教えていることをあまり深く理解していない教員もいっぱいいます。それでも能力の高い生徒がどんどん自分の能力を伸ばしていけるのは、教育内容が体系化されているからです。「世界史」「古文」「数学」「化学」などは、学び方や教え方があるていど決まっていています。だから、能力の高い生徒は教員よりも授業内容を深く理解することができます。

これは、ある種の魔法です。不可能なことを可能にしているのです。学校ってすごいと思いませんか。


先輩のUさんよりコメントを頂きました:

教育の目的は個人を社会に適合化させる社会化ではなく、さらにその先の課題があります。社会を発展させることは「エリート」だけの仕事ではないからです。それ故に教育基本法の理念として、「機構から解放されるために教育がなされる」、ということがあります。これがおっしゃるところの「教師よりもわかっている生徒」の存在と関係します。学校、国家、企業から自由になる思考がなければ、それらを発展させることもまた不可能なのです。教育基本法第一条の「人格の完成」というような考え方は単純なプラグマティズムからは出てきません。

コメントありがとうございます。学校とは、生活に役に立つ事柄を学ぶ場ではなく「思考」を学ぶための場である。そして、その「思考」が社会を発展させる、というコメントです。

また、教育の目的である「人格の完成」は、至言だと思います。これは単なる理想論ではありません。現実問題として、生活指導や部活動、教科指導を通して生徒一人一人の人格の指導を進めないと、学級や学年は逆に崩壊します。そういうギリギリのところで学校は運営されている、ということです。