普通に授業準備するだけなら、1時間の授業の準備には2、3時間あれば十分だ。
しかしeラーニングのコンテンツ作成には、膨大な時間がかかる。特に映像はそうだ。5分間の映像を作るのに5時間かかる。画像のスライドショーでも、10分間のスライドショーを作るのに1時間はかかる。私は教材屋ではなくて教員なのだから、これでは話にならない。
どうせeラーニングのコンテンツは再編集が可能なのだから、最初は雑なものでよいのだ。雑なものを短時間で作り、あとは授業時間の中で補足するのが現実的だ。では、eラーニングのコンテンツに最低限必要なものは何だろう?
おそらく答えは画像かテキストのどちらかだ。なぜなら映像は作成に時間がかかり、取ってくるにも時間がかかるからだ。そして画像については、環境が整っていれば授業中でも探すことができる。すると答えはテキストということになる。
これは何かの本質という気がする。ふつうの教員が授業前に用意するのは、たいてい板書だ。eラーニングについてもそれが当てはまるというのは、どういうことだろう。板書とeラーニングのテキストには、何か共通点があるのだろうか?
1つ考えられるのは、板書もテキストも時間の流れの中で情報を1つずつ出していくということだ。そして受け取り手に1つずつ情報を入れていく。同時に2つの情報が示されることはない。一筆書きというか、一本道だ。この経路というかストーリーのようなものに、価値があるのだ。
このストーリーについて、少し回り道をしよう。
不思議に思ったことがある。問題集はいくらでもあるのに、なぜ教員は自作プリントを作りたがるのだろう?これは大いなる無駄ではないのか?この事実に、さきほどのストーリーの謎が隠れている。
考えられる理由は2つある。
1つは、説明内容は同一でも、言い回しや例えが教員によって異なるため、その違いを問題集は吸収できないという理由。わかりやすく言えば「離れている」「遠い」「距離がある」という違いだけで生徒は混乱することがある。授業中に言った言葉と違う言い方をしている問題集を使うと、生徒は混乱してしまう。これは根源的には生徒の国語能力の低さが原因なのだが、そんなことを言っても仕方がない。
もう1つは、説明内容の濃淡が教員によって異なるということ。同一の対象についての説明であっても、突き詰めると教員一人一人の「教えたいポイント」は異なる、ということだ。
ある見方をすればそれは当然だ。なぜなら、生徒がどのような未来を持つことを期待するかは教員によって当然異なり、それによって「教えたいポイント」も変わってくるからだ。
例えば理科を教えるにしても「自然に興味を持ってほしい」と期待して教えるのと「生きていく糧になるかもしれない」と期待して教えるのでは、内容が異なる。前者は<敷居の低い大衆向けの説明>になるし、後者は<難易度の高い数学的操作の習熟をも要求する>だろう。
以上の理由から、教員は授業前に教科書をまずマイストーリーに翻訳する。それが板書だ。この翻訳作業の中で、一般的説明に教員固有の濃淡と順序と言い方・表現が付与される。各々の教員の個性が強く反映されるため、マイストーリーはその教員の体の一部のようなものだ。そして教室で、マイストーリーを授業するのだ。
さてeラーニングに最低限必要なものは何かという最初の問いに戻ろう。それはマイストーリーだ。これはテキストで十分だ。そしてテキストを表示するには、スクリーンよりも黒板の方がはるかに優れている。前に書いたことがわかる(後方参照性)があるからだ。ちなみに私の師匠の一人は板書は必ず1枚(消さない)で仕上げていた。後方参照性とともに進行の度合いもわかるからだ。
つまりeラーニングは、黒板よりも決定的に劣っているのだ。
さらに、同じ理由でeラーニングはノートに対しても決定的に劣っている。さらに授業の中で1行ずつ黒板に内容が書かれていくライブ性は、生徒のノートを書く意欲を喚起する。
つまり黒板+ノートというのは、極めて強力なタッグなのだ。
しかし、ここにeラーニングを活用する糸口があるのではないか。それは、後方参照性に優れたノートの活用である。
eラーニング・コンテンツに表示する内容は、原則としてすべてノートに書かせる。これがeラーニングの必要条件ではないか。具体的には、途中に過去に書いた内容を問う問題を出して、それに答えないと先に進めないようにする。その上で、内容に応じて画像や動画を見せていく。
作る側は、まずテキストのみでコンテンツを作り、途中で何回もノートを書いているか確認するよう小テストを配置する。そして、使用可能な時間に応じて画像なり動画を入れ込んでいけばよい。テキストだけのうちは黒板の方がパフォーマンスがよいのでeラーニングは補助的に使い、画像や動画が充実してきたコンテンツのみeラーニングのみで授業するのがよいだろう。
これならいけそうだ。また折を見て検討を進めたい。